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やまなし上野原ジオストーリー 

動く三つの大地、重なる三つの段丘。
水がひらき、みちが結び、人が息づく上野原。

①【日本列島をつくった大きな動きが、上野原に重なっている】

日本列島は、複数のプレートが出会う、世界でも大地の動きが活発な場所にあります。海洋プレートが陸側のプレートの下へ沈み込み、海底の地層を陸側へ押しつけ、火山をつくり、山地を持ち上げてきました。日本列島の地形は、こうした大地の動きが長い時間にわたって積み重なった結果です。
関東地方の地下では、陸側のプレートの下へフィリピン海プレートが沈み込み、さらにその下へ太平洋プレートが沈み込んでいます。また、フィリピン海プレートに乗って南の海から移動してきた伊豆・小笠原弧が、本州側へ衝突を重ねてきました。この複雑なプレート運動によって、関東山地、丹沢山地、富士山を含む、変化に富んだ大地が形づくられてきました。
上野原は、富士山のふもとの山中湖から相模湾へ流れる、桂川・相模川の中ほどにあります。北には関東山地、南には丹沢山地が迫り、その間を桂川と鶴川、秋山川などの支流が流れています。
この比較的狭い地域には、「海の底から生まれた大地」「山の間を土砂が埋めてできた大地」「南の海から移動してきた大地」が並んでいます。
上野原を歩くことは、約9000万年にわたる日本列島形成の重要な場面と、その大地の上に築かれた人々の暮らしを、一つの流域の中でたどることでもあります。

②【北の山は、海の底から生まれた】

約9000万年前、現在の日本列島がまだ形づくられる途中だったころ、海底をつくる大きな岩盤が、本州側の下へ沈み込んでいました。
そのとき、海底にたまっていた泥や砂の一部が、へらでこそげ取られるように陸側へ押しつけられ、次々と積み重なりました。長い年月の間に、それらは硬い地層となり、その後の大地の動きによって持ち上げられ、北部の関東山地をつくりました。
このように、海底の地層が陸側へ付け加わってできた大地を、地学では「付加体(ふかたい)」と呼びます。西原(さいはら)地区や棡原(ゆずりはら)地区で見られる砂岩(さがん)や泥岩(でいがん)、曲がった地層は、かつてそこが深い海の底だったことと、その後に大きな力を受けたことを伝えています。
海の底から生まれた北の山地は、さらに長い時間をかけて雨や川に削られました。削られた岩石は、礫(れき)・砂・泥となって桂川や支流へ運ばれ、のちに上野原の中央部の大地や河岸段丘(かがんだんきゅう)をつくる材料にもなりました。

③【南から、火山の大地がやってきた】

その後、南の海では、海底火山の活動によって島々や海底の地層がつくられました。この火山の大地は、フィリピン海プレートに乗って、長い時間をかけて少しずつ北へ移動してきました。
やがて南から来た大地が本州側に近づき、ぶつかりました。その力によって地層が押され、曲がり、持ち上がり、現在の丹沢山地につながる大地が形づくられました。
上野原南部の秋山川沿いでは、水中で噴き出した溶岩(ようがん)が急に冷やされ、細かく砕けてできた岩石を見ることができます。また、大きく変形した地層や大地の境目は、南の海で生まれた大地が本州側へ移動し、衝突したことを考える手がかりになります。
伊豆・小笠原弧の衝突とフィリピン海プレートの沈み込みは、遠い過去だけの出来事ではありません。現在もこの地域では大地の動きが続いており、山地の隆起、河川の侵食(しんしょく)、地震や斜面変動などを通じて、地形は少しずつ変わり続けています。

④【二つの山地の間を、土砂が埋めた】

北の関東山地と南の丹沢側の大地が近づくなかで、その間にあった海や谷状の低地には、周囲の山々から泥・砂・礫が流れ込みました。
大量の土砂が長い時間をかけて積み重なり、押し固められ、泥岩(でいがん)、砂岩(さがん)、礫岩(れきがん)などの岩石(がんせき)になりました。その後、大地全体が持ち上がり、桂川沿いを中心に地表へ現れました。
こうして上野原には、北から順に、
⒈ 海の底から生まれた大地
2. 山と山の間を土砂が埋めてできた大地
3. 南の海から移動し、本州側にぶつかった大地
という、成り立ちの異なる三つの大地が並びました。
これが、上野原の「動く三つの大地」です。専門的には、北の大地を「付加体(ふかたい)」、中央の大地を「埋積帯(まいせきたい)」、南の大地を「衝突体(しょうとつたい)」と表しています。
藤野木―愛川構造線(とうのきーあいかわこうぞくせん)と呼ばれる大地の境目や、秋山川沿いに見られる海底火山活動の跡は、三つの大地がそれぞれ別の場所で生まれ、動き、出会ってきた歴史を伝えています。
日本列島をつくってきたプレートの沈み込み、付加体の形成、海底火山活動、島弧の衝突、山地の隆起という大きな地球の動きを、比較的狭い範囲で結びつけて考えられることが、上野原の大地の重要な価値です。

付加体‗埋積帯‗衝突体の図.png

⑤【川が、大地に階段を刻んだ】

第四紀と呼ばれる約260万年前から現在までの間、桂川と鶴川などの支流は、砂礫を運び谷を埋め、大地を削りながら流れ続けてきました。
気候が寒くなったり暖かくなったりすると、山の植生、風化の進み方、川の水量、山から運ばれる砂礫の量が変わります。砂礫(されき)が多く運ばれて谷が埋まる時期もあれば、川が勢いを増し砂礫が大地を深く削る時期もありました。
上野原の川には、関東山地や丹沢山地から削り出された砂礫だけでなく、富士山の火山活動に伴って運ばれた砂礫(されき)も堆積(たいせき)し、平らな土地をつくりました。そこに大地の隆起が重なり、川は、それまでにつくられた谷底を掘り下げました。
川が深く掘り下がると、それまでの川原は水面より高い場所に取り残されます。こうして、川沿いに階段のような平らな土地ができました。これらの地形を「河岸段丘」と呼びます。
上野原の物語では、複雑な地形のでき方を一般の人にわかりやすいように、「桂川が流れた場所の変化の証」、「大量の礫による堆積の証」、「河川の侵食の証」の三つにまとめ、「重なる三つの段丘」と表現しました。三つのストーリーに関係する段丘がそれぞれ大椚面(おおくぬぎめん)、上野原面、鶴島面になります。
これは、段丘が学術的に三面だけに分けられるという意味ではありません。詳しく見ると、上野原の段丘は、大椚面(おおくぬぎめん)、葛原面(とずらはらめん)、上野原面、諏訪面(すわめん)、鶴島面(つるしまめん)など、さらに多くの段丘面に分けられます。それぞれの高さ、広がり、礫層、火山灰などを調べることで、川がいつ砂礫をため、いつ大地を削り、どのように地形ができたのかを読み解くことができます。

⑥【段丘は、大地の動きを記録した野外教室である】

上野原の河岸段丘の価値は、単に段丘が三つ、あるいは複数の段に分かれていることだけにあるのではありません。
桂川と支流の流域には、高さの異なる段丘面が比較的まとまって残り、段丘の平らな面、段丘の崖、段丘をつくる礫層、現在の河床を近い範囲で見比べることができます。川が砂礫をためて平らな土地をつくり、その後に流路を掘り下げ、古い川原を段丘面として残していく過程を、地形と地層の両方から学ぶことができます。
桂川沿岸の地形と河岸段丘は、約100年前から地理学や地形学の研究対象となってきました。その後も研究者や学生がこの地域を訪れ、段丘面の区分、段丘礫層の特徴、火山灰との関係、川の侵食と大地の隆起などを調べてきました。
研究と学習の対象となってきた理由は、地形が明瞭であることに加え、川が運んだ砂礫、大規模な土石流の堆積物、富士山などに由来する火山灰や土砂、段丘形成後の侵食を、同じ流域の中で比較できることにあります。
鶴川宿対岸では、上野原の段丘をつくる約60メートルの厚い礫層(れきそう)を、下部から上部までほぼ連続して観察できます。下部には土石流(どせきりゅう)によって一気に運ばれた堆積物(たいせきぶつ)があり、上部では川が運んだ礫(れき)を中心とする堆積物(たいせきぶつ)へ変化していきます。現在確認されているなかでは、上野原の段丘堆積物(だんきゅうたいせきぶつ)をこれほど連続して観察できる唯一の露頭(ろとう)です。
鶴島の段丘崖(だんきゅうがい)では、段丘の平らな面と、それを桂川が削ってつくった崖を同時に見ることができます。現在の川、低い段丘、高い段丘を見比べれば、川が長い時間をかけて低い位置へ移ってきたことを、景観そのものから読み取ることができます。
上野原の河岸段丘は、大地の隆起(りゅうき)、気候の変化、火山活動、河川による堆積(たいせき)と侵食(しんしょく)が重なってつくられた「大地の記録」です。同時に、その上に遺跡、集落、畑、街道、市街地が重なっているため、大地の成り立ちと人の暮らしとの関係を学ぶ、優れた野外教室でもあります。

⑦【山・谷・川・段丘が、生き物と人の居場所をつくった】

標高の高い山地、深い渓谷、段丘の崖、湧水、河川など、上野原には変化に富んだ地形があります。
そこには、落葉広葉樹の森、針葉樹と広葉樹がまじる森、川辺、湿地、崖地など、さまざまな環境が生まれました。それぞれの場所に適した植物が育ち、多くの動物が暮らしています。
人もまた、縄文時代から、平らで暮らしやすい場所や、水を得やすい場所を選んで住み、集落や耕地を築いてきました。段丘面に残る遺跡は、昔の人々も地形と水の条件を見極めながら、暮らす場所を選んでいたことを伝えています。
一方、段丘の上は平らで、洪水の影響を受けにくいという利点があるものの、川から高く離れているため、水を得にくいという課題がありました。この大地の条件が、上野原の人々にさまざまな工夫を生み出させました。

​⑧【人の知恵が、水を引き、地域をひらいた】

川より高い段丘の上へ水を運ぶため、人々は川や沢に取水口を設け、長い用水路を掘りました。谷の底に管を通し、水の力で反対側の高い場所へ送る仕組みや、雨水や沢水をためる池もつくられました。
こうして引かれた水が、上野原の水田や畑、人々の暮らしを支えました。秋山地区の富岡では、山の斜面に水を回すことで、美しい棚田がひらかれました。
近代になると、人々は桂川の豊かな水量と、段丘や谷の大きな高低差を、電気をつくる力として生かしました。大野貯水池と八ッ沢発電所施設は、上野原の水と地形を利用し、東京をはじめとする首都圏の電化を支えました。
また、人がつくった水辺には、魚や水辺の植物、野鳥などが集まり、新しい自然環境が育ちました。大野貯水池は現在、野鳥を守り観察するバードサンクチュアリとしても大切な場所になっています。
大地の不便を、人の知恵によって地域の豊かさへ変えてきたことが、「水がひらき」の物語です。

​⑧【みちが、人・物・文化を結んだ】

上野原は、関東平野と甲斐国(かいのくに)を結ぶ大切な場所にあります。人々は、険しい山や深い谷を避けながら、尾根、段丘の平らな面、川沿いなど、比較的通りやすい地形を選んで道をつくりました。
江戸時代には甲州街道が整えられ、上野原宿、鶴川宿(つるかわじゅく)、野田尻宿(のたじりじゅく)、犬目宿(いぬめじゅく)が栄えました。
鶴川の渡しや桂川の舟運も、人や物資を運び、地域の暮らしを支えました。
山が深く、道を通すことが難しかった秋山では、山を掘り抜いて天神隧道(てんじんずいどう)がつくられました。隧道(ずいどう)は、隔てられていた地域を結び、人々の移動と暮らしを大きく変えました。
近代になると、中央本線が開通しました。鉄道は急な坂を上ることが難しいため、線路は桂川沿いの段丘崖の中腹を通っています。上野原駅は、段丘上の市街地と、低い場所を流れる桂川の間をつなぐ、上野原の玄関口となりました。
道、水路、鉄道を通して、農産物や商品だけでなく、信仰、祭り、食文化、技術、人々の思いも行き交いました。これが「みちが結び」の物語です。

​⑨【大地とともに、人が息づく上野原】

現在の上野原では、三つの大地と段丘の上に、山村、棚田、旧街道の宿場、市街地、鉄道、発電施設、住宅地などが重なっています。
上野原の人々は、大地の条件をそのまま受け入れてきただけではありません。水を引き、道を通し、斜面を守り、自然と折り合いながら暮らす知恵を積み重ねてきました。
一方で、現在も続く大地の動きと、急な斜面、段丘崖、河川の存在は、地震、崖崩れ、土石流、洪水などに備える必要があることも教えています。上野原の大地を知ることは、地域の魅力を知るだけでなく、自分たちの命と暮らしを守ることにもつながります。
大地の成り立ち、そこで育まれた自然、人が築いてきた歴史や文化を、別々のものとしてではなく、一つにつながった物語として守り、学び、次の世代へ伝えていく。それが、やまなし上野原ジオパーク構想の役割です。
約9000万年前から続く大地の動きの上に、人々の営みが重なり、上野原の物語はいまもつくられ続けています。

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