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やまなし上野原ジオストーリー 

動く三つの大地、重なる三つの段丘。
水がひらき、みちが結び、人が息づく上野原。

【上野原には、日本列島の成り立ちがぎゅっと詰まっている】
上野原は、富士山のふもとの山中湖から相模湾へ流れる、桂川・相模川の中ほどにあります。北には関東山地、南には丹沢山地が迫り、その間を桂川と鶴川、秋山川などの支流が流れています。
この比較的狭い地域には、「深い海の底から生まれた大地」「山の間を土砂が埋めてできた大地」「南の海から移動してきた大地」が並んでいます。
上野原を歩くことは、約9000万年にわたる日本列島の成り立ちと、その大地の上に築かれた人々の暮らしを、一つの流域の中でたどることでもあります。

 

【北の山は、深い海の底から生まれた】
約9000万年前、現在の日本列島がまだ形づくられる途中だったころ、海底をつくる大きな岩盤が、本州側の下へ沈み込んでいました。
そのとき、海底にたまっていた泥や砂の一部が、へらでこそげ取られるように陸側へ押しつけられ、次々と積み重なりました。長い年月の間に、それらは硬い地層となり、その後、持ち上げられて北部の関東山地をつくりました。
このように、海底の地層が陸側へ付け加わってできた大地を、地学では「付加体(ふかたい)」と呼びます。西原(さいはら)や棡原(ゆずりはら)
で見られる砂岩(さがん)や泥岩(でいがん)、曲がった地層は、かつてそこが深い海の底だったことと、その後に大きな力を受けたことを伝えています。
海の底から生まれた北の山地は、さらに長い時間をかけて削られ、桂川や支流へ礫・砂・泥を送り出す源となりました。

【南から、火山の大地がやってきた】
その後、南の海では、海底火山の活動によって島々や海底の地層がつくられました。この火山の大地は、海底をつくる大きな岩盤(がんばん)に乗って、少しずつ北へ移動してきました。
やがて南から来た大地が本州側に近づき、ぶつかりました。その力によって地層が押され、曲がり、持ち上がり、現在の丹沢山地につながる大地が形づくられました。
上野原の南部に見られる火山活動の跡や、大きく変形した地層は、南の海から大地が移動してきたことを示す証拠です。

【二つの山地の間を、土砂が埋めた】
北の関東山地と南の丹沢側の大地が近づくなかで、その間にあった海や谷状の低地には、はじめに北の関東山地から、やがて山地となった南の丹沢側の大地からも、泥・砂・礫(れき)が流れ込みました。
大量の土砂が長い時間をかけて積み重なり、押し固められ、泥岩(でいがん)、砂岩(さがん)、礫岩(れきがん)などの岩石になりました。その後、大地全体が持ち上がり、桂川沿いを中心に地表へ現れました。
こうして上野原には、北から順に、深い海の底から生まれた大地、山と山の間を土砂が埋めてできた大地、南の海から移動し、本州側にぶつかった大地という、成り立ちの異なる三つの大地が並びました。
これが、上野原の「動く三つの大地」の物語です。専門的には、北の大地を「付加体(ふかたい)」、中央の大地を「埋積帯(まいせきたい)」、南の大地を「衝突体(しょうとつたい
)」と表しています。
藤野木(ふじのき)-愛川構造線(あいかわこうぞうせん)と呼ばれる大地の境目の大きな断層や、秋山川沿いに見られる火山活動でできた地層は、三つの大地が動き、出会ってきた歴史を伝えています。

【川が、大地に三段の階段を刻んだ】
約260万年前から現在まで、桂川と鶴川などの支流は、大地を削りながら流れ続けてきました。
気候が寒くなったり暖かくなったりすると、山から運ばれる土砂の量や川の流れ方も変わります。土砂が多く運ばれて谷が埋まる時期もあれば、川が勢いを増し、たまった土砂や大地を深く削る時期もありました。
川が深く掘り下がると、それまでの川原は水面より高い場所に取り残されます。こうして、川沿いに階段のような平らな土地ができました。この地形を「河岸段丘(かがんだんきゅう)」と呼びます。
上野原の物語では、これらを大きく「高い段丘・中くらいの段丘・低い段丘」の三つにまとめ、「重なる三つの段丘」と表現しています。
詳しく見ると、上野原の段丘は、大椚面(おおくぬぎめん)、葛原面(とずらはらめん)、中野面、上野原面、諏訪面(すわめん)、鶴島面(つるしまめん)など、さらに多くの段に分けられます。富士山から流れてきた火山灰や岩石を含む土砂も、それぞれの段丘がいつ、どのようにできたのかを知る手がかりになっています。

【山・谷・川・段丘が、生き物と人の居場所をつくった】
標高の高い山地、深い渓谷、段丘の崖、湧水、河川など、上野原には変化に富んだ地形があります。
そこには、落葉広葉樹の森、針葉樹と広葉樹がまじる森、川辺、湿地、崖地など、さまざまな環境が生まれました。それぞれの場所に適した植物が育ち、多くの動物が暮らしています。
人もまた、縄文時代から、平らで暮らしやすい場所や、水を得やすい場所を選んで住み、集落や耕地を築いてきました。
一方、段丘の上は平らで、洪水の影響を受けにくいという利点があるものの、川から高く離れているため、水を得にくいという課題がありました。この大地の条件が、上野原の人々にさまざまな工夫を生み出させました。

【人の知恵が、水を引き、地域をひらいた】
川より高い段丘の上へ水を運ぶため、人々は川や沢に取水口を設け、長い用水路を掘りました。谷の底に管を通し、水の力で反対側の高い場所へ送る仕組みや、雨水や沢水をためる池もつくられました。
こうして引かれた水が、上野原の水田や畑、人々の暮らしを支えました。秋山の冨岡では、山の斜面に水を回すことで、美しい棚田がひらかれました。
近代になると、人々は桂川の豊かな水量と、段丘や谷の大きな高低差を、電気をつくる力として生かしました。大野貯水池と八ッ沢発電所施設は、上野原の水と地形を利用し、東京をはじめとする首都圏の電化を支えました。
また、人がつくった水辺には、魚や水辺の植物、野鳥などが集まり、新しい自然環境が育ちました。大野貯水池は現在、野鳥を守り観察するバードサンクチュアリとしても大切な場所になっています。
大地の不便を、人の知恵によって地域の豊かさへ変えてきたことが、「水がひらき」の物語です。

【みちが、人・物・文化を結んだ】
上野原は、関東平野と甲斐国を結ぶ大切な場所にあります。人々は、険しい山や深い谷を避けながら、尾根、段丘の平らな面、川沿いなど、比較的通りやすい地形を選んで道をつくりました。
江戸時代には甲州街道が整えられ、上野原宿、鶴川宿、野田尻宿(のたじりじゅく)、犬目宿(いぬめじゅく)が栄えました。鶴川の渡しや桂川の舟運も、人や物資を運び、地域の暮らしを支えました。
山が深く、道を通すことが難しかった秋山では、山を掘り抜いて天神隧道(てんじんずいどう)がつくられました。隧道(ずいどう)は、隔てられていた地域を結び、人々の移動と暮らしを大きく変えました。
近代になると、中央本線が開通しました。鉄道は急な坂を上ることが難しいため、線路は桂川沿いの段丘崖の中腹を通っています。上野原駅は、段丘上の市街地と、低い場所を流れる桂川の間をつなぐ、上野原の玄関口となりました。
みちは産業も育てました。段丘や山あいの集落では養蚕(ようさん)や機織り(はたおり)が行われ、甲斐絹などの織物がつくられました。織物は甲州街道沿いの市に集められ、江戸へ運ばれました。市に集まった商人たちに親しまれた酒まんじゅうも、上野原を代表する食文化として受け継がれています。
道、水路、舟運、鉄道を通して、農産物や商品だけでなく、信仰、祭り、食文化、技術、ことば、そして人々の思いも行き交いました。これが「みちが結び」の物語です。

【大地が育て、みちが伝えた上野原の風土】
上野原では、山や深い谷によって集落が隔てられる一方、川、峠、街道によって、人々が結ばれてきました。この「隔てられること」と「結ばれること」の重なりが、地域ごとに異なる暮らしと文化を育てました。
自然の恵みを受け、災いを避けたいという願いは、山や水に対する信仰となりました。山の奥に鎮座する軍刀利神社(ぐんだりじんじゃ)をはじめ、各地の神社や祠には、山、水、農作物、旅の安全などに向けられた人々の祈りが受け継がれています。
祭りや民俗芸能も、集落の結びつきを守る大切な役割を担ってきました。秋山の無生野(むしょうの)に伝わる「無生野の大念仏」(むしょうのだいねんぶつ)は、先祖を供養し、人々の無事を願って受け継がれてきた国の重要無形民俗文化財です。(令和4年にユネスコ無形文化遺産に登録)棡原(ゆずりはら)・西原(さいはら)の獅子舞(ししまい)、古在家の神楽舞(こざいけのかぐらまい)、新町・本町の祭囃子(まつりばやし)なども、それぞれの土地で人と人を結び、地域の記憶を次の世代へ伝えてきました。
山や峠、深い谷を行き来した人々の経験は、民話や伝説にも姿を変えて残されています。秋山に伝わる雛鶴姫(ひなづるひめ)の物語などには、険しい道を越えることの難しさ、人の命のはかなさ、亡くなった人を弔う心が込められています。民話は、実際に起きた出来事をそのまま記録したものとは限りません。しかし、その土地で人々が何を恐れ、何を大切にしてきたのかを伝える、もう一つの地域の記録です。
大地の姿は、地域のことばや歌にも刻まれています。上野原の小・中学校の校歌には、桂川や鶴川、山並み、谷、断崖、段丘などがたびたび歌われています。上野原中学校の校歌にある「第四紀層断崖(がけ)上の~」という言葉は、地学の専門用語が、ふるさとの風景を表すことばとして長く歌い継がれてきた、上野原ならではの例です。
山や谷によって集落が分かれていたことは、地域ごとの言い回しや地名の読み方にも表れています。一方、甲州街道や鉄道によって関東と甲斐の人々が行き交ったため、外から入ったことばや文化も重なりました。土地ごとに残る方言や呼び名は、人の移動と交流の歴史を伝える文化遺産でもあります。
大地の条件は、食にも表れています。平地が少ない棡原(ゆずりはら)や西原(さいはら)などの山間地域では、斜面や小さな畑を生かし、雑穀、そば、いも、豆、野菜、山菜などを組み合わせて食べてきました。季節ごとに得られるものを無駄なく使い、保存し、分かち合う知恵です。
棡原(ゆずりはら)は、こうした食と暮らしが注目され、「長寿の里」として広く知られるようになりました。そこで受け継がれてきた料理は、「長寿食(ちょうじゅしょく)」と呼ばれています。長寿を一つの食材だけで説明することはできませんが、土地に合った食材を育て、体を動かし、地域で支え合ってきた暮らし全体が、上野原の大切な文化です。
現在では、旧甲州街道を歩くフットパス、山歩き、川や貯水池での自然観察、棚田(たなだ)や農山村の体験、祭りや民話を訪ねる旅、酒まんじゅうや長寿食などを味わう観光へと、地域の資源が生かされています。
上野原の観光は、美しい景色を見るだけのものではありません。なぜこの景色が生まれ、そこで人々がどのように暮らし、何を祈り、何を食べ、どのような産業や文化を育ててきたのかを、土地の人とともにたどる営みです。
大地から生まれ、長い時間をかけて育てられてきた祭り、信仰、民話、食、ことば、産業、暮らしの知恵。それらが一体となって、上野原らしい「風土」をつくっています。

【大地とともに、人が息づく上野原】
現在の上野原では、三つの大地と段丘の上に、山村、棚田、旧街道の宿場、市街地、鉄道、発電施設、工業団地、住宅地などが重なっています。
上野原の人々は、大地の条件をそのまま受け入れてきただけではありません。水を引き、道を通し、斜面を守り、自然と折り合いながら暮らす知恵を積み重ねてきました。そして、その経験を祭りや民話、食、ことば、歌、技術として、次の世代へ伝えてきました。
一方で、急な斜面や段丘の崖、河川の存在は、崖崩れや土石流、洪水などに備える必要があることも教えています。上野原の大地を知ることは、地域の魅力を知るだけでなく、自分たちの命と暮らしを守ることにもつながります。
人口減少や高齢化によって、祭り、伝統芸能、農地、用水路、方言、暮らしの知恵などの継承が難しくなっている地域もあります。しかし、それらを単に昔のものとして保存するだけでは、地域の未来にはつながりません。
大地の成り立ちとともに、祭りや食文化、民話、産業などが生まれた理由を学び、地域の内外の人に伝え、教育、観光、産業、防災、地域づくりに生かしていくことが大切です。地域に暮らす人と訪れる人がともに学び、楽しみ、守る仕組みをつくることで、上野原の風土は次の世代へ受け継がれていきます。
大地の成り立ち、そこで育まれた自然、人が築いてきた歴史や文化を、別々のものとしてではなく、一つにつながった物語として守り、学び、未来に生かす。それが、やまなし上野原ジオパーク構想の役割です。

約9000万年前から続く大地の動きの上に、人々の営みが重なり、上野原の物語はいまもつくられ続けています。

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